成功した事業を引き継いだら、攻めと守りのバランスを整えよ!

曹操の魏・劉備の蜀と並んで、三国の一を成した「孫権の呉」。曹操と劉備が一代で国を治めるまで昇りつめたのに対し、孫権は父・孫堅と兄・孫策が築いた地盤を引き継いだ三代目の君主としての立ち居振る舞いをしたことが特徴です。

・父が創業し、兄が発展させた事業を引き継いだ弟

父の孫堅は曹操と同じ世代で、多くの群雄が広い中国の各地で割拠した時代に青年期を過ごした人物です。17歳で海賊討伐を行なったことで名を知られるようになり、県知事などのポストを歴任して、群雄の仲間入りを果たしました。しかし、これからというときに敵対関係にあった劉表との戦いで命を落とします。まだ37歳の若さでした。

父が突然、しかも若くして世を去ったことで、孫家の事業は一旦途絶えることになります。しかし、長男の孫策が父に仕えていた有能な人物とともに再起を果たし、父の事業を拡大することに成功します。孫策の快進撃は、揚子江下流域の南側一帯を支配下にするほど広大なものとなり、北の袁紹・曹操も一目置くほどの英雄となります。しかし、孫策も処刑した内通者が世話をしていた浪人によって暗殺されるという悲劇に襲われます。このとき、孫策はわずか25歳。後を継いだ孫権はまだ18歳でした。

孫権にとって幸運だったのは、大きな内部分裂もなく兄の事業を引き継いだこと。西暦200年に若き君主(社長)となった孫権は、その後252年に世を去るまで50年以上に渡って、呉の経営を取り仕切ることとなりました。

・状況に応じて味方を変え、専守防衛に徹した「第三の男」

孫権は曹操の魏・劉備の蜀のどちらとも手を結んだり敵対するという、「状況に応じた負けない経営」に徹したとされています。曹操が大軍を率いて南下してきたときには、劉備と手を組み、曹操を破り(赤壁の戦い)、劉備が蜀(今の四川省と雲南省)へ進出すると、曹操と画策して、荊州の関羽(劉備の義弟)を破って領土の一部を拡大させたりもしています。父や兄のように積極的に事業拡大をするのではなく、引き継いだ呉の安定経営に心血を注いだことから、曹操や劉備よりも影が薄く、「第三の男」という評価もされています。

・豪族の集合体でリーダーシップを執った実力

呉は孫権をリーダーとして国の形を成しましたが、実際には国内に有力な豪族が数多くいて、孫氏は三流豪族だったと言われています。そのため、有力豪族達の意向や権益などの問題とも向き合っていかねばならず、魏や蜀に対しても「守ることで安泰を図る」ことが第一とされた感があります。中国を統一し、孫氏の天下を実現させることより、リスク回避を重視せざるを得なかった状況が窺い知れます。

現代でも、積極的に事業展開するタイミングと、守りに入ってリスクを回避するタイミングが、会社の存亡に大きく影響していることは言うまでもないでしょう。日本でもバブル景気に踊らされて不動産やレジャー事業に手を出し、破綻した企業はいくつもあります。個人で事業を興そうと志している方や、会社で頭角を現し始めた若手社員は、孫堅・孫策の攻めと孫権の守りの両方を参考にして、攻め時・守り時を見誤らないようにしたいですね。