部下や後輩を大切にできないと、いざというとき孤立するかも!?

あなたの通う学校や会社の先輩、上司に「後輩や部下に厳しく当たる」人はいませんか?アメとムチではありませんが、ただ厳しいだけでアフターケアをしっかりしていないと、孤立したり、寝首をかかれたりすることになりかねませんよ?

・対等以上の相手に厳しく、傲慢に振舞って孤立した名将・関羽

兵卒や民衆にはいたわりの心で接し、主君劉備への並々ならぬ忠誠心から、「義の人」と称されている関羽。後世の王朝から「王」や「帝」、ついには「神」として祀られるようになった人物で、横浜中華街にも大きく派手な「関帝廟」が建立されているのは有名です。

ただし、この関羽。兵士や民衆には心優しい将軍として慕われていたものの、自分と同等以上の将軍や同盟国である呉への対応は傲慢で恨みを買っていたとされています。劉備軍の領土拡大に伴って、荊州という要地の最高責任者となっても、その傾向は治らず、隣接する敵国・魏と同盟国であったはずの呉に挟み撃ちにされて命を落としています。

関羽は、呉の荊州方面の責任者が名将として知られた呂蒙から無名の陸遜に変わったことで警戒心を緩め、魏への攻略に力を注ぐ作戦を採ります。後方に残した部下は関羽に恨みを持っていた将だったため、呉の電撃作戦にあっさり降伏。関羽が気づいたときには、既に身動きができない「関羽包囲網」の網に引っかかっていました。

歴史に「もしも」は有り得ませんが、もし関羽が同盟国である呉への態度に細心の注意を払い、後方に残した将軍も自分に信頼を寄せる者を選んでいたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。少なくとも荊州で無念の敗死をすることはなかったでしょう。

・目上には従順だったが、部下には厳しすぎて寝首をかかれた豪傑・張飛

関羽と義兄弟の契りを交わしていた張飛は、関羽とは逆に部下への振る舞いが乱暴で、張飛の部隊はずば抜けて処刑される者が多かったと言われています。今で言う「パワハラ上司」にも通じるところがあったといえます。

張飛の死は、部下への無茶な命令が原因とされています。呉に殺された関羽の仇討ちとして出兵する際、部下2人に「3日以内に3万人分の白装束を用意しろ。できないときは首をはねる」と命じます。部下が「せめて10日は頂かないと、間に合いません」と報告すると、激怒して鞭打つ始末。部下はその場をやり過ごして引き下がりましたが、命令はとても完遂できるものではありません。結局2人で「殺されるくらいなら」と、睡眠中の張飛を殺し、敵国・呉へその首を持って逃走。時代を代表する豪傑としては何ともあっけなく、哀しい最期を迎えてしまいました。

・簡単そうで難しい、「部下や後輩に慕われる」こと

仕事のできる上司や先輩を尊敬するのは簡単でも、部下や後輩を可愛がり、尊敬されるというのは難しいことです。特に関羽や張飛のような「個人としての実力が優れている」と、周りの同僚や部下に対して「なぜこんなことができないんだ!」とイラつくことが多々あります。それをただ怒りとして表現するのではなく、叱りながらも伸ばしていく配慮が必要です。

関羽も張飛も50代半ばで、人の手によって命を落としています。部下や後輩への厳しさに「思いやりや優しさ」を兼ね備えていれば、『三国志』はもっと違った展開になっていたかもしれません。