大事な仕事こそ、上司の指示や同僚の意見に耳を傾けるべし!

会社勤めも長くなってくると、会社の実績を左右するような重要な仕事を指示されることが出てきます。その時、上司や先輩の指図やアドバイスを無視して失敗した場合、どうなるのでしょうか。

・秀才軍略家、馬謖(ばしょく)を起用した孔明の誤算

初代皇帝・劉備が世を去って数年。後を託された丞相・諸葛亮(孔明)は、遂に最大のライバル、魏への北伐を開始します。1度目の北伐では、両軍にとって重要な地である街亭(がいてい)を押さえ、守り抜く重要な任務が発生しました。当時の蜀には趙雲や魏延といった歴戦の将軍がおり、街亭の守備も経験豊かな魏延が任命されると誰もが思っていました。

しかし、孔明は実戦経験の乏しい馬謖を指名。かねてから才能を高く評価していた彼に実戦で箔をつけさせる目的もあったのでしょう。孔明は馬謖に、「街道に陣を設け、魏軍を通すことなく、街亭を守りきれ」と指示を出します。念を入れて副将に経験豊富な王平という将軍もつけての作戦でした。

本陣を出発し、街亭に到着した馬謖。地形を見渡して、孔明の指示ではなく山の頂上に陣を敷くように部下に指示を出します。副将の王平がこれを諌めると、「軍略のわからん奴は黙ってみていろ」と取り合おうとしません。仕方なく王平はわずかな兵で街道に陣を敷き、もしものときに備えて馬謖とは別行動をとります。

魏軍が街亭に到着すると、馬謖の布陣を見て大笑い。すぐに山を取り囲んで山頂の馬謖軍に水の補給をさせない布陣を取ります。魏の大軍に取り囲まれた上、水がなくなり強行突破するしかなくなった馬謖は大敗を喫し、王平や後方で待機していた蜀軍に助けられてなんとか生き延びるのが精一杯という有様。

・「泣いて馬謖を斬る」

戦後、馬謖が軍令違反で勝手な布陣をしたことを重罪として、孔明は馬謖を処刑。自らも監督不行き届きとして三階級の降格を申し出ます。孔明は馬謖を処刑するとき涙を流してその才を惜しんだと言われていますが、一説によると、馬謖は牢につながれていたところを脱獄しようとしてその場で斬り殺されたとも伝えられています。いずれにしても、孔明痛恨の人事ミスで第一次北伐は終了します。

・任務につくときに守るべきもの

上司などから指示を受けて任務を遂行するとき、その指示を無視して行動することは許されることではありません。三国時代には、功を挙げれば軍令違反は問われないという不文律があったようで、抜け駆けや独断での行動で戦果を挙げることもしばしばありました。しかし、失敗したときには重大な命令違反として処罰されるだけでなく、指示をした上司もその監督責任を問われることになります。任務で提案や指示の変更を求めたければ、勝手な判断は避け、報告や相談を経て行動に移すようにしたいものです。

余談ですが、劉備は生前、孔明に対して「馬謖は重用するな」と忠告していたと言われています。長い経験の中で、馬謖は軍略家ではあっても指揮官としては欠陥があると見るところがあったのでしょう。これも踏まえて考えると、孔明も亡き主君・劉備の指示に背いて失敗したということになりますね。