上司と意見が衝突したときは、妥協するポイントも探せ!

上司の意見が逆を向いている。しかも、明らかに誤った方へ進もうとしているとき、どこまで自分の意見を貫くべきでしょうか。適当なところで妥協しながら、正しい方向へ軌道修正させられればベストなのですが、あまり自分の意見にこだわると、上司との関係にヒビが入ってしまうことにもなりかねません。

・曹操に厚い信頼を寄せられていたはずの参謀・荀彧の悲劇

曹操が頭角を現し始めた頃から仕えていたのが荀彧です。彼を迎えたとき、曹操は「私の張良(古の名軍師)だ」と喜び、荀彧もその言葉に違わぬ活躍をして曹操との信頼関係は揺るぎないものになっていました。

しかし、曹操と荀彧は基本的な考えが違っていました。当時の中国はまだ「漢帝国」の世で、曹操は皇帝を補佐する立場を意識して行動していました。しかし、家臣の中から曹操を魏公に推戴しようという動きが起こり、荀彧は反対したことで曹操の不興を買ってしまいます。「公」という地位に就けるのは、基本として皇帝の一族か世を去った功臣に追贈されるものでした。現代で言う、「亡くなってから国民栄誉賞」のようなものです(厳密には全然違いますが)。

荀彧の考えは、あくまでも「曹操は漢王朝を補佐する人物」でした。一方の曹操は、息子の代で新たな王朝を開くことを目指していたフシがあります。つまり、「魏公への昇進は計画的なルート」だったわけです。ここに両者の考えは全く噛み合わなくなり、荀彧は憂悶のうちに病死したとも、曹操によって自殺させられたとも言われる最期を遂げています。

・袁紹にビシバシ意見をして投獄された直言の士・田豊

曹操よりも天下に近かったと評されていたのが袁紹です。元々名門出身なため、多くの有能な人物が彼の配下となっています。その中に、田豊(でんぽう)という参謀がいました。彼の考えは的確で、袁紹がそれを聞き入れていれば曹操を滅ぼすことも不可能ではなかったかもしれません。しかし、袁紹はことごとく彼の進言とは反対の行動をとっています。

田豊はその性格を「剛直すぎる」と評価されています。袁紹に対してもズバズバと意見をしていたとされていて、煙たがられていた感があります。曹操と決戦することを「時期が悪すぎです。今は戦うべきではありません。」と諌めたことが袁紹の逆鱗に触れ、軍の士気を削ぐものとして投獄されてしまいます。決戦の結果は田豊の見立てどおりで袁紹は大敗。「あの時、田豊の意見を聴いていれば良かった」と言わしめたといいます。

しかし、田豊の剛直な性格は本人不在のところでも災いします。袁紹は後悔したのも束の間、そばにいた参謀から「今頃田豊は『それみたことか』と手を叩いて喜んでいますぞ」と言われ、彼を処刑してしまったのです。田豊もそれは予見していたらしく、「もし、我が軍が勝てば自分は生きていられるだろうが、負けたときには命はないだろう」と語っていたとされています。

・上司の方針にどこまで反論し、その後をどう対処するか

荀彧も田豊も、主君(上司)と逆の方向性を強く主張したために生命を失っています。現代社会では殺されたり投獄されることはなくても、疎んじられることや煙たがられることは充分に考えられます。一度自分の意見を主張した後は上司の方針に従い、失敗に傾きそうな状況でやんわりと自分の意見を打診(主張ではない)するのが、上司の感情を逆撫でせずに方向修正をさせる事ができる護身術でしょう。ただ「はいはい」と従うだけでは、「あいつのせいで失敗した」と濡れ衣を着せられかねませんから、要注意ですよ。