派閥争いは程々に!内部分裂の隙を突かれたら一巻の終わり

現代社会でも人が集まると必ずと言っていいほどできるのが、「仲良しグループ」とか「派閥」といったものではないでしょうか。ただ仲良しが集まって楽しくやっている分には問題はありませんが、グループ間や派閥間で争いが起きると、事は非常に厄介なものになります。

・天下取り候補筆頭だった袁紹軍の「後継者争い」

最終的に天下の2/3を支配し、魏を興した曹操が成功者の筆頭となっている三国志。しかし、天下取りに最も近いと言われていたのは、曹操の幼馴染みであり、ライバルでもあった袁紹でした。西暦200年の時点で、袁紹は曹操の10倍の兵力と豊富な軍需物資を持ち、両者が激突した「官渡の戦い」では誰もが袁紹の勝ちと考えていました。

しかし、蓋を開けてみると、曹操の圧勝。袁紹はこの敗北で大打撃を受け、2年後に病死してしまいます。袁紹軍の大きな敗因は、参謀達の足の引っ張りあいと短気で功に焦った将軍達の暴走を大将である袁紹が制御できなかったことで、特に参謀の派閥争いによって袁紹は的確な献策を退け続けるという失敗を犯しています。

更に袁紹が犯したミスは、自分の後継者をきちんと決めずに世を去ったこと。袁紹には3人の息子がいましたが、長男と三男が後継者の地位を巡って分裂してしまい、それに軍中の参謀や将軍達ものっかって、大お家騒動を起こしてしまいます。この隙を見逃さなかった曹操によって、まず長男が処刑。続いて異民族の地へ逃げた次男と三男も殺されて、首を曹操への土産にされてしまいました。袁紹の死後、わずか5年で、最大勢力だった袁家は曹操によって滅ぼされたわけです。

もし袁紹やその参謀の中に「外敵・曹操の脅威」を把握して一族を取りまとめられた人物がいたら、曹操の覇業はもう少し遅れていたかもしれません。外の脅威よりも内の派閥争いを優先した結果で、袁紹が三流君主の烙印を押されることになったのは、当然のことと言えるでしょう。

・内部分裂した挙句、外敵に降伏した劉表の次男一族

袁紹の一族が滅んだのとほぼ同時期、曹操の南の敵であった荊州の劉表も同じ失敗を犯していました。前妻の子(長男)よりも後妻の子(次男)を跡継ぎにすべく、後妻の一族が暗躍し、長男派と次男派で劉表の家臣団も分裂。劉表も病ではっきりと後継者を指名しないまま世を去ったため、後妻一族の権力によって、次男が跡継ぎに決められました。長男派であった家臣や客将の劉備は、曹操が南下してきたことを受けて荊州から離れ、残された跡継ぎの一族も曹操と戦わずに降伏。劉表の死後1年も経たずに荊州は曹操に明け渡されます。

袁紹の息子達は、「自分が後を継いで曹操に対抗する」意思があったと思われますが、劉表の後妻一族は、「後は継がせたいけど、曹操には勝てないからすぐ降伏しよう」という不思議なお家騒動を起こしたことになりますね。

・派閥騒動や内部分裂が起きたときは、「外に隙を狙われていないか」を冷静に見るべし!

袁紹も劉表も、外敵・曹操の存在を無視して内部分裂し、結果その隙を突かれて「外敵のために内部分裂した」というマヌケな結果を引き起こしています。もしも部活動や会社のプロジェクトチーム内、担当部署の中に内部でいざこざが起きていたら、「それを狙って美味しい思いをしようとしている別の存在はないか」を冷静になって分析してみるといいでしょう。特に企業間で一つの仕事を請け負うために争っているときは、相手に隙を突かれないように一致団結して外敵に対抗しなければ、袁紹や劉表のようになりますよ!?